世田谷線 玉電

40年前の世田谷線は玉電と呼ばれていた

世田谷線がテレビで特集されていましたので、世田谷線のお話をしたいと思います。著者は世田谷区に産まれ、10歳までを世田谷区の赤堤という街で過ごしました。日常の買い物は下高井戸の商店街に行ったり、松原の大関屋に行ったりしていました。

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 ごくまれに母が下高井戸から松原まで電車に乗ることがあったので、よく覚えています。この電車、巷では世田谷線なのですが、私の中では玉電と言います。どうしてなのかを調べてみました。このような感じで、歴史を刻んできた名残なのですね。⇒玉電(東京急行電鉄多摩川線) 私たちは紹介されていた世田谷線を、親しみを持って「玉電」と呼んでいたのです。母親からはいつも「玉電で帰ろうか?」「玉電乗るよ!」などと言われていたので、私はどうしてもこの路線を世田谷線と呼ぶことができません。ちなみに大関屋というのは現在のスーパーオオゼキの本社です。記憶が曖昧ですが、乾物屋のようなスーパーのような、そんな感じのお店でした。私が郊外へ引っ越すことになる数年前に大改装が行われ、車で買い物に来る人がいて驚いたものでした。母親にキャベツを2つ買ってきてと言われたので買ったのですが、野菜不足だったのか、当時の価格で250円もするキャベツを2つ買って帰ったところ、「高すぎるから返して来なさい」と言われ、しぶしぶ返品に行ったのを覚えています。

子供運賃がなかった

路面電車の駅がそうであるように、玉電の駅には駅員もいませんし、改札口もありません。路線バスのように電車の中に入ると運賃箱があり、その箱の中に運賃を投入します。私は昭和49年まで乗っていましたが、確か当時は子供の運賃がなかったように記憶しています。子供運賃は私が引っ越してから設定されたのだと思います。濃い緑の車体に年季の入った木製の床、少したるんだ網棚の網や人の手でこすられたのかピカピカになった手すりなどが印象に残っています。時折新しい形の車両もありましたが、子供ながらに古い車両の方が好きでした。小学校低学年の私の活動範囲は、せいぜい下高井戸、松原、豪徳寺位まででしたが、それでも京王線と小田急線を繋いでいるので子供ながらにこの路線はすごいと思っていました。

大切にしたい世田谷線

モータリゼーションの中で多くの路面電車、路線が廃止になりましたが、玉電は殆どが専用の線路を走っていたので何とか生き残ることができました。現在の新型車両も素敵ですが、昔の玉電は味がありました。今も私の心の中に残り、そして毎日を走り続ける玉電。いつまでも頑張ってね。

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